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会津観光の穴場スポットを紹介!魅力溢れる隠れた名所「新撰組の聖地」を探索してきました

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旅行
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こんにちは。会津生まれの酒とロックといいます。

突然ですが、会津観光の穴場といえば、墓巡りがオススメです。

もちろん、はじめての会津なら、会津さざえ堂 (円通三匝堂)、白虎隊の墓がある飯盛山、武家屋敷などの名所巡りもはずせません。

名物ソーツカツ丼や、少し脚を伸ばして喜多方ラーメンなどのグルメに舌鼓をうつのもいいでしょう。

ただ、あくまでも「穴場」という意味では、墓巡りは会津歴史と深みを存分に味わえること間違いなしです。

会津武士や戊辰戦争で活躍した歴史の登場人物の墓を辿るのは、歴史ファンなら格別です。

というわけで今回は、そんな会津観光の穴場のひとつ、天寧寺へ足を運びました。

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会津の穴場:新撰組隊長、近藤勇が眠る天寧寺

天寧寺は、新撰組隊長、近藤勇の墓があることで知られるお寺です。会津若松から周遊バスで「奴郎ヶ前」にて下車。

バス停すぐ近くに案内看板が立っているので入り口はすぐにわかるはず。

住宅街を抜け、細い山道を登っていきましょう。車で行くには少し心許ない細道です。夏場、この辺りは熊が出没したことがあるので、何となくスリリングです。

お寺の駐車場まで登ると、会津盆地を見渡せます。晴れていればなお気持ちが良いです。

天寧寺の入り口には近藤勇の墓があることが記された看板が立っていました。「嗚呼 新撰組隊長 近藤勇」の「嗚呼」がいいですね!

旅行中だと時間が限られていることも多く、こうした説明看板をじっくり読める機会が少ないので、ブログに記しておきます。

新撰組隊長近藤勇は、戊辰の役で奪戦中千葉で力つき、ついに薩長の手に捕らえられ、首をはねられました。遺体は東京三鷹市の龍源寺に埋葬されたが、首は京都の三条大橋下流にされされた。しかし、何者かが持ち去り、この地に埋めたと言われる。このお墓は、會津藩の手によって建立されたが、それは會津藩主容保公が京都守護職中、新撰組はその支配下にあり、挺身幕府のために力を尽くした。また、土方歳三など一行が會津に来て、戦闘に参加した際、この墓を参詣したと伝えられる。墓石には「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号と、その上に丸に三つ引きの近藤家の家紋が掘られている。毎年4月25日の命日には、墓前祭りが執り行われている。

境内を横目に奥に通じる道を進むと、突き当たりにお墓がみえてきました。天寧寺はおよそ600年前(1422年)に建立された歴史あるお寺です。そのためか本当に多くのお墓があります。

墓守がいなくなった家の墓を一同に介したのでしょうか?道の脇には墓石が隙間なくぎっしりと並べられていました。何年前のお墓なんだろ。

長い歴史を考えると、生きている人の数より死者の数の方が圧倒的に多いはず。そう思うと、人生は本当に短いものだと痛感させられます。一日も無駄に出来ません。

会津士魂が宿る神聖なる場所

最初のお墓がある場所にたどり着くと、最初に目に飛び込んでくるのは「会津士魂」と刻まれた石碑。

歴史小説「会津士魂」の作者、早乙女貢氏のお墓に立てられた石碑で、この文字は早乙女氏が筆を執ったそうです。いいなぁ。会津士魂、さっそく読んでみます!

会津の歴史を伝えてくれた感謝を込めて、早乙女さんにお墓に手を合わせます。墓石もクールですね。

で、近藤勇の墓はどこかと周りを見渡すと…

小道を進むよう行き先を記した看板が立てられていました。写真が斜めになったのでもう一枚。。。

小道は舗装されていませんよ。なので、天候が悪い日はお参りそのものを避けた方が良いかもしれません。晴れ男で良かった!

先に進むと、すぐお墓があると思い込んでいましたが、目的地はまだ先です。

なにげに結構な山道なんで、驚きました。ほぼ登山です。

さらに上へ進みます。雨じゃなくて本当に良かったです!

先程の駐車場より上に登ってきたので、木陰から町並みを見渡すことができます。写真ではわかりにくいですが、さきほどから結構高い場所であることがわかります。

木陰から鶴ヶ城を見つけられるでしょうか。看板がたてられていました。

さきほどのポイントから少し坂を下ると、開けた場所が見えてきました。

これぞ会津の穴場スポット:近藤勇の墓

おぉ〜!近藤勇の墓が見えてきたようです。新撰組ファンなだけに、ちょっと感動!

いつも斜め読みしてしまう説明看板を改めて清書します。読みやすいよう句読点などを追記して記載しておきます。

天保五年十月九日、武州調布町上石原(東京都調布市)の郷士宮川久次郎の三男として生る。幼名を勝太と謂う。自宅に道場を構え十五歳にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめ当時近藤門下の麒麟児として近郷に名を馳せた。師近藤周助は父宮川久次郎に懇願し、勝太十七歳の時養嗣子として迎える。元服して名を勇と改め、剣理を究め後、試衛館を継ぐ。塾頭に沖田総司、土方歳三、山南敬助、原田佐之助、藤堂平助、井上源三郎、客分に永倉新八らを率いた。その後、京に上り新撰組の母体となった。新撰組の活動は文久三年から慶応三年に至る五年間である。中でも最も著名なものは新撰組最盛期の池田屋騒動である。聴衆の志士古高俊太郎の自白により、元治元年六月二十日を期して京都御所に火を放ち、その虚に乗じ朝廷を長州に奪行しようと企図し、同志が祇園祭りを幸いに池田屋に集結謀議中を新撰組の察知するところとなり、出動後世に残る大惨劇となった。新撰組はその後、伏見鳥羽の戦いに際し、伏見警備につくも新式火器の前に利なく敗走、海路江戸に集結残余の者をまとめて甲陽鎮撫隊を編成。勝沼の戦いで再び敗北、その後流山に集結していた。勇は大久保大和と称していたが、元隊士加納道之助の密告により逮捕され、土佐藩谷千城の厳命により時世二詩を遺して斬首の刑に処された。会津守護職の直属であった新撰組隊長の首が松平容保公の居城の地に、副長土方歳三の手によって建墓された首塚と語り伝えられている。

時世の句が刻まれた石碑も建っていました。

孤軍援絶作俘囚 顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔

軍が孤立し援軍も絶えて、囚われの身となった。主が気にかけてくれたことを思い出すと涙がさらに流れてくる。一面に溢れる忠誠心で節義に殉じる。唐の時代の忠臣 張巡こそが私の同志である。

靡他今日復何言 取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣 只将一死報君恩

敵になびいて言うべきことはない。生きることを捨て義を取ることは、私が尊ぶところである。斬首を快く受け入れよう。一死をもって主の恩に報いるのだ。
現代訳参照:Tactical-Media

一死をもって主の恩に報いる…なんて、現代に生きる私にはとうてい理解におよばず。鬼気迫る覚悟だったんですね。

お墓の前には、近藤勇が愛したという「血梅」が植えてありました。枝を切る血がにじむように真っ赤な色をしているのがその名の由来のようです。

これが近藤勇の首塚です。墓石には「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号と、その上に丸に三つ引きの近藤家の家紋が掘られていました。

慶応四戊辰四月二十五日卒とあります。慶応四年は1868年。今から150年以上前。四月二十五日は近藤勇が処刑された命日です。

その隣には、近藤勇の右腕だった土方歳三の石碑も建てられていました。以前は木碑だったようですが、2020年に石碑に建て替えられたそうです。

土方歳三…名前そのものが格好いいなぁ。

土方さんはここ天寧寺にて約3か月間の療養生活を送っていたそうで、この間に近藤の墓を建てたと言われているそうです。会津藩主、松平容保公に依頼したそうですが、どんな表情で松平公に話をしにいったのでしょうか。

会津家老の田中家、萱野権兵衛の墓も見どころ

近藤勇に祈りを捧げた後、会津家老田中家の墓にも手を合わせてきました。田中家の墓は少し山を少し下ったところに、ひっそりと鎮座していました。

真ん中のお墓は、江戸末期の家老として知られる田中玄宰の父、玄興さんのものでしょうか?お墓が小さいように見えますが、実際は胴回りが太く、立派な墓石です。

田中玄顕のお墓。といっても、田中玄宰とどういった血筋にあるのかさっぱりわかりません…。というわけで調べてみました。

田中家で会津藩初代は、父は佐渡金山の代官をつとめた田中清右衛門正長(玄重・清六)(-1614)の子、田中正玄(1613-1672)。江戸幕府4代将軍・徳川家綱の後見人であったようです。

この後、玄忠、玄督、玄顕、玄興、玄宰、土佐玄清と続きました。つまり、先のお墓は、玄宰の祖父にあたる方なのかも。

ちなみに、彼は「田中正玄家訓13条」を遺しており、この家訓が後に日新館で教え伝えられた「什の掟」に継承されたようです。

田中正玄家訓13条

一、敬神尊祖之事
二、目上の人に無礼な振る舞いするな
三、嘘ごとを言うう事ならぬ
四、卑怯な振る舞いするな
五、弱いものをいじめるな
六、ならぬことはならぬ
七、人に頼らず己に頼れ
八、衣食住は己の力に合わせよ
九、人に媚びへつらうな
十、人を非難する前に先ず己を省みよ
十一、人に陥しいれられても人を陥し入れるな
十二、恩人には何かを報いることを忘れるな
十三、人に疑われるような事をするな

右条々に違い背き致す家人は、縁切り勘当の処置を申し付けるもの也三朗兵衛正玄 寛文十一年辛亥年正月

什の掟

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

こうした疑問を調べてみるのも、また楽しいものです。

天寧寺には、会津の全責任を負って自刃した会津家老・萱野長修と息子の群長正のお墓もあります。歴史の登場人物オールスター墓地って感じです。

先程歩いた山道より少し険しいところを進むとその墓がありました。

石碑に何か書かれていました。清書しておきます!

 会津萱野家の始祖は萱野権兵衛長則と称し、加藤嘉明の上級家臣として国替えにより会津に移ったが、嘉明の嫡子明成が石見に滅封された後、会津藩主として高遠藩から最上を経て、入府した保科正之に召しかかえられた。長則は寛文六年(1666年)八十余歳で没し、この天寧寺に葬られた。子孫も代々会津藩の興隆に尽くし、天寧寺が萱野家の菩提寺となった。
特筆すべきは、九代権兵衛長修とその二男長正である。長修は、あの凄惨を極めた戊辰戦争の全責任を一身に負い、藩候と全藩士に代わり、明治二年五月十八日、江戸の飯野藩邸において、従容として切腹した。享年四十二歳、知行千五百石の家老であった。郡長正は戊辰戦争後の明治三年、会津の教学復興のために選ばれた藩内の少年七名の一人として現福岡県豊津町の小笠原藩藩校育徳館に留学した。長正は、最小年ながら文武ともに秀でていたが、とある事情により会津武士道を汚したとして明治四年五月一日、異郷の地において自刃して果てた。時に齢十六歳であった。小笠原藩は長正の死を悼み会津の方角に向けて墓を立て、その霊を弔った。育徳館の後身である福岡県立豊津高等学校は昭和三十一年十月、会津の石二基を配した郡長正記念庭園を校内に築造し、今日においても郡長正を顕彰している。以って全国高等教育の範とすべきである。豊津町では毎年命日に当たる五月一日に郡長正墓前祭りを盛大に挙行しており、会津士魂会としても感謝に堪えない。
ここに会津士魂会は、東京都在住の篤志家、天生目(法姓平子)義清氏の御芳志と会津士魂の伝授の心に、誠意を捧げて、観世音菩薩像を建立し、萱野家ご一同に対し深甚なる敬意を払い、その霊を祀る次第である。
平成十五年五月十八日 会津士魂会

といっても、どれが誰のは墓なのか…

このあたりでしょうか?時間が限られていたため、手を合わせて帰路を急ぎます。

静かで、かといって、さみしい場所でもない。天寧寺はそんなところでした。まさに会津の穴場中の穴場といえるでしょう。景色も素晴らしいです。

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おまけ:末廣酒造と新撰組記念館と斎藤一のお墓にも

今回の会津観光でどうしても足を運びたかったのが、末廣酒造の酒蔵と、そこから歩いて近くにある新撰組記念館、そして元新撰組の斎藤一のお墓参りへ。

というわけで、末廣酒造に到着。酒蔵らしい風情ある建物です。時間さえあえば、酒蔵見学も無料でできて最後にはいろんなお酒を試飲できます!今回は車だったので泣く泣くスルー。駐車場は無料だし広くていいですよ!

目的はここで、「会津高田梅梅酒」を買うこと。

初めて飲んだのは酒蔵見学したときだったのですが、これ、メチャメチャ美味いんですよ〜。ぜひご賞味あれ。

続いて新撰組記念館へ。いやぁ〜新撰組ファンにとってはなんとも言えない面構え!さっそく暖簾をくぐって中へ…。中の様子は写真撮影しませんでしたが、垂涎ものの貴重品が所狭しと並んでおりました。かなり楽しめます!

新撰組記念館からさらに歩いて数分のところに阿弥陀寺があります。七日町を観光しながら歩けるので距離は感じません。

裏から入ったら、鶴ヶ城の遺構である御三階なるものがありました。

江戸時代の建築で、明治初年まで鶴ヶ城本丸にありましたが、明治3年にこの地に移されました。外観は3階ですが、内部は4層になっており、2階と3階の間に天井の狭い部屋があります。3階に上る梯子は用の無いものが上がれないように、上から引き上げる仕組みになっており、当時は密議所に使用されていたと思われます。また、本丸北東の正方形の石垣の上に絶っていたところから、物見や展望台の役目を果たしていました。戊辰戦争の戦火で阿弥陀寺が消失したために、長く本堂として使用されてきました。限界の唐破風は場内本丸御殿の玄関の一部を配したものです。鶴ヶ城の遺構として唯一残る貴重な建物です。

こちらが斎藤一のお墓。大正四年九月に亡くなられたようです。名前は斉藤一改め、藤田五郎となっています。

大河ドラマ「八重の桜」にも出ていた奥さんの時尾さんと二人が並んで墓誌に刻まれていました。時尾さんは、新島八重の幼なじみ。八重が籠城戦の際、髪を切ったのも時尾さんでした。斎藤一と時尾さんの仲人を務めたのは、会津藩主である松平容保公です。

斎藤一は、1844年(弘化元年)、お家人の父、山口祐介・母マスとの間に生まれた。初名を山口一、のち斎藤一に改めた。1863年(文久三年)壬生浪士組、のちの新撰組に参加。副長助勤、三番隊隊長として活躍、沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で剣術師範も務めた。池田屋事件にも参戦。その後、伊東甲子太郎らが御陵衛士を拝命し、新撰組から分離した時伊東に同調して離脱。しかし、局長の近藤勇の密命によるものといわれ、油小路で伊東らが暗殺された後、新撰組に復帰し山口二郎と改名。鳥羽伏見の戦いなどを経て、会津若松城下に入り負傷した土方歳三に代わって新撰組隊長となり、会津戦争を戦った。しかし西軍が城下に迫ったとき、「会津候(松平容保)あっての新撰組、会津を見捨てることは出来ない」と隊士十余名と会津に残り仙台へ向かった土方と別れた。会津藩降伏後は一瀬伝八と名乗り越後高田に幽閉。明治三年斗南へ移る際、藤田五郎と改名。その後、上京し警視庁に入り、容保の媒酌により会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚。警視庁においては西南戦争へ出陣するなど活躍。その後東京教育博物館等へ奉職し、1915年(大正四年)七十二歳で逝去。後半生を会津人として生きた本人の希望によりここ阿弥陀寺に眠っている。

The grave of a great member of Shinsen-Gumi, Hajime Saito(Goro Fujita)

Hajime Saito was born in 1844. He joined the Shinsen-Gumi in 1863. He was the captain of the 3rd troop. He also took part in the Ikedaya riot, which was a turning point in their career. After the end of the shogunate, the Boshin Civil War started. The Aizu clan fought against the Choshu and the Satsuma clans. The Aizu area was one of the war fronts then. During the Boshin Civil War , the head of the Shinsen-Gumi, Isami Kondo, passed away and the vice-head, Toshizo Hijikata, was injured. Hajime Saito became the next head of the Shinsen-Gumi and took command of the army protecting the Aizu area. Following the formation of the Meiji government, hi changed his name to Goro Fujita and joined the police troops. In 1873, Saito married Tokio Takagi, who was the daughter of an important Aizu official. He passed away in 1915, and now he sleep here, in Amida-ji Temple, by his request.

金色の葵の紋章が浮き彫りされた会津戦争墓に手を合わせて締めくくりました。

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会津観光のまとめ

ゴールデンウィーク真っ只中でしたが、今回見て回ったところは混雑することなく、落ち着いて墓石めぐりができました。静かに会津観光ができる穴場コースのひとつだったと思います。